ユウルリ

 週末に無理をしたおかげで、今日は少し時間の余裕ができた。そういえば、ここのところ本を読むゆとりがなかったなと、1冊を手にとる。

日和下駄 (講談社文芸文庫)

日和下駄 (講談社文芸文庫)

 江戸という町についてはあまりにもわからないことが多いので、研究にせよ、趣味にせよ、アタマに入らない。地理はもとより、歴史、文化など、馴染みがなさ過ぎる。荷風の随筆を読んでいると、わからないなりにアタマに地図を描きつつ、ぶらぶらと散歩しているように思われるのだから不思議。

江戸の風景堂宇には一として京都奈良に及ぶべきものはない。それにも係らず此の都会の風景に生まれたるものに対して必ず特別の興趣を催させた。

 「江戸」からみたとき、京都や奈良といった古都に対するコンプレックスがあったようにもみえるこの一文は、しかし、その根底には「都会」と鄙(田舎)の対比があるようだ。「そうだ京都、行こう」のコピーにも通じそうな感覚なのかも知れない。

関西の都会からは見たくも富士はみえない。

 これも「関西の」と断ったうえでの「都会」だから、決して東京にならぶ対象としてみてはいない。「見たくも」、「みえない」富士。江戸の文化を象徴するような富士の眺望を誰もが羨望するであろうという前提が、関東の優位をさりげなく示してもいる。
 研究生だった頃、新宿にある小田急ホテルセンチュリータワーに宿泊したことがある。チェックインが夕方だったこともあり、窓外に広がる眺望を気にすることもなかった。翌朝、カーテンを開けて驚く。かつて葛飾北斎が描いた浮世絵のごとく、芙蓉の山容が目に飛びこんできた。そうか。平野が広がるこの地は、たとえば東山や西山というような、あるいは生駒や六甲の山並みのようなひと続きの山が見えない。だからこそ、遠景に浮かぶ富士山や筑波山を特別な思いで眺めていたのであろう。妙に納得した覚えがある。
 ☆
 つらつらと考えども、「世の中はどうも勝手に棕梠箒」。こんなことばにニヤリとしつつ、ゆうるりと日が暮れてゆく。