交通不能

 年末からずっと気になっていた論文を、昨日ようやく入手した。研究会の担当箇所と多少の関係がありそうだったので、補助資料として配付したいという思いが「出不精」の背中を押してくれたわけだ。
 それは、田中貴子「史料と資料にはさまれて」(『日本歴史』2009年1月号・2008.12.24)で、日本史研究と日本文学研究の隔たりと情報交通の可能性について書かれている。両者のあいだには「ひそやかな差別意識」と「劣等感」で固められた壁があり、「交通のなさ」がいっそう両者を隔絶しているのだという。

同じ資料を見ても、研究方法や目的が異なれば結果は違うはずであり、それこそがあるテクストを多角的に研究する道でもあるのだが、今の文学研究と日本史研究はそのような場を持ち得ていないのである。互いの「領域」(これを日本史では「史料」といい、文学では「資料」と呼ぶ)を狩り場とし、「獲物」を批判すればわが身の尺度に照らし合わせて「うちではそういうのは認められない」というだけである。

 それぞれの依拠する方法論が違うのだから「うち」意識が生まれてしまっても仕方がないのかも知れない。しかし、同じ「獲物」を俎上にのせるのであれば、そういう切り口もあるのかと互いの「狩り場」を見通し「交通」したほうが有益なはずなのである。
 また、両者の壁を補強するものとして、「資料=Source」と「史料=Historical material」という用語のレヴェルに潜む問題がある。つまり、文学研究における「資料」は「何かを論証するためのデータ」であるのに対し、日本史研究における「史料」の場合、「客観性が保証されている」という特権的な意味が付与されている*1。そしてこの「客観性」を根拠とする特権化は、「対象への暴力性」であり、テクストの差異を隠蔽してしまうことになる。

あるテクストを〈史料〉として扱うということは、多様な存在形態の資料群を歴史学ディシプリンで選別・固定し、歴史的実体の復元に有効か否かで価値づけるという意味を持つ(北條勝貴「〈書く〉ことと倫理―自然の対象化/自然との一体化をめぐって―」)

 おそらくはこのあたりの事情で、日本史研究者(「国史学研究者」とは自称しない)は無意識のうちに「国文学者」という呼称を使用するのだと思われる*2
 では、この壁を越えて「交通」するためにはどうすればよいのか。それについては、こんな提案をしている。

いずれは、文学と歴史の研究者による討論形式の研究会を持ちたいと思っています(田中貴子ブログ「夏への扉、再び―日々の泡」・2008.10.04)

 近い将来、机上の論ではないこうした実践の場を通して、両者の研究蓄積が「共有」される日がやってくるのだろう。是非にも参加したいと願う。

*1:もちろん「史料批判」という手続を踏んでいるのだとしても、その査定に主観が入り込む隙はないのかという検討が見過ごされてはいまいか。

*2:届いたばかりの学内誌に載る先輩の論文に「史料」の文字を見つけた。研究対象がいわゆる「国学者」なのでそう記述したのだろうか。その真意をお聞きしたいものである。