雷と地勢

 この5年ほど、伏見の城山の南側に住まっている。このあたりは京都盆地のなかでも1年をとおして気候が温暖で、底冷えするほどの寒さを感じることはまずない。丘陵の南斜面という地形が影響しているのであろう。


 江戸時代後期の医師、国学者として知られる橘南谿(1753−1805)は、1788年(天明8)に京中から伏見へ居宅を移している。住居したのは2年ほどであるが、晩年までここを利用していたことがわかっている。「黄華堂」と名づけられたこの別宅は伏見豊後橋筋立売町にあったとされ、おおよそ現在の国道24号線沿いの鍋島町付近に相当する(拙宅の極近!)。晩年の随筆『北窓瑣談』をみると、伏見で遭遇した落雷について次のように記している。

安永の頃、余、伏見に在けるが、一とせ雷おびたゞしく鳴りて、所々へ落ける事の有しに、豊後橋の南の畑の中に、稲などをかりいるゝ一ツ家のありけるに、耕作の者十人あまり逃いりて、雨と雷をさけ居けるに、不幸にも其小屋のうへに雷落て、集りをる人のまん中へ透りぬ。是がためにうたるゝ者数人、手足をれ腹破れて即死す、其余も、大方は卒倒気絶す。中に一両人何の事もなかりし者もありて、其絶気したる者を介抱し帰りて、皆それぞれに薬をあたへ、保養して平癒しけるが、後二ヶ月ほど過て、にはかに寒熱暴発して、一、二日の間にみなみな死せり。雷の毒の発せしと見えたり。其病体、病犬などの毒の発せるに類して、数日過て発し死せるも亦、奇とすべし。

 時期は前後しているが、「黄華堂」のあった場所から豊後橋(現在の観月橋)の南すなわち向島方面は見通しもよく、あるいは落雷を目撃することもあったのかもしれない。しかし、その興味が雷そのものではなく、落雷後の患者の病状に向けられているのがいかにも医師らしい。また、当時の人々が雷についてどのように考えていたのか、「毒」という表現からもうかがい知られよう。「病犬(=狂犬病)」に類似しているとの指摘もおもしろい。


 暗雲が立ち、雷鳴が天地を轟かす。気象変化の要因とそのシステムが科学的に証明されている現代でも、雷が怖ろしい自然現象であることには違いない。今日の京都は午後から天気が一変し、数多の落雷と豪雨にみまわれた。拙宅の窓からは観月橋の南側にいくつもの落雷があったのを確認することができた。こうしたことは今日に限ったことではない。この5年間で年に数度、向島方面の落雷を見ることがあった。もしかしたらあのあたりは地理的に雷の落ちやすい場所なのかもしれない。同じような事例が江戸時代の文献にも確認できるのだから、なんとも不思議な心地がする。