書評やも

 京都に住んでいると、他郷の人から「いいところにお住まいですね」といわれることがある。たんなる社交辞令なのかも知れないが、京都にかぎっていえば少し違った意味があるように思う。
 「いいところ」というのはこの場合、有名な神社仏閣が多くある東山や嵯峨嵐山一帯、花街の風情あふれる祇園界隈、町屋が軒をつらねる中京など、一般的に「京都らしい」とされる場所を指しているのだろう。残念なことに、わたしが住んでいるのは京都市南部のいわゆる「洛外」であって、江戸時代でいえば京都町奉行(御役所)支配の外に位置している。つまり「京都らしい」範疇からは外れた場所なのだ。「いいところ」と評してくれた人はきっとうちの近所を見てがっかりすることになるだろう。
 だがしかし、ここもまた京都なのである。日常的な風景のなかに芸妓や舞妓が歩いていなくても、べんがら格子や犬夜来がなくても、気にくわない客にぶぶ漬けをすすめるような年配の人が住んでいなくても…。京都のなかには多種多様な町があり、それぞれに異なった特徴をそなえている。「京都らしい」といった形容で画一化できるようなものではないのだ。


 こうしたなんでもない戯言のなかにも、批評理論の一端をみることができる。たとえば、京都にまつわるイメージの生成にはポストコロニアル的想像力がはたらいているとみることができるだろうし、モノラルなイメージではとらえきれない多種多様さを認める態度があるいは脱構築につうじているとみなすこともできよう(書き手の才能のなさゆえにそうはみえないかもしれない)。

知の教科書 批評理論 (講談社選書メチエ)

知の教科書 批評理論 (講談社選書メチエ)

 ところで、批評理論とは、(非常に陳腐なたとえではあるが)料理における調理方法なのだと思う。ある素材を存分に味わうために、どのような調理の仕方が適当であるか検討する。思いがけず最適な方策を見いだすこともあるだろうし、思惑どおりにいかない場合もあるだろう。とるに足らない素材がご馳走に化けることもあれば、高級な素材を台なしにしてしまうことだってある。いずれにせよ、できるだけ多くの技術を身につけておくことが肝要であろう。

 本書の場合、調理方法がすでに用意されているため、著者はそれぞれに適した素材=テクストを見つけなければいけない。個人的には、
第三章「テクストの無意識はどこにある―精神分析批評」
第五章「不可視の階級闘争をあぶり出せ―マルクス主義批評」
第七章「悲しきシェイクスピアポストコロニアル批評」
あたりに「旨味」を感じた。逆に、その調理方法に適した素材が他にあったのでは、と感じてしまう箇所もみうけられた。ただし、ここで国語教育における正解/不正解のような二元論的な区分けをするのは妥当ではない。「美味しい」(文中のことばでいえば「おもしろい」)と感じられる解釈を見つけ出すことができればそれでよいのだろう。

 とりあえず、谷崎潤一郎夢の浮橋』でも読んでみるか。そういう気分にさせるという意味で、批評理論の入門書として成功していると思う。