起承転結

 関西中華思想においては「ハナシのオチ」があるということが重要視されている。呑み屋のカウンターで、学校の屋上で、家族の団欒で、常に要求されるコミュニケーション能力である。(必要があるかどうかはおくとして)どちらかというと場の空気や間を読めないほうだと思う。その証拠に、大学時代、話すそばから「で、オチはあるんやろうな」と釘をさされ続けていた。
 ところで、「オチ」があるということは「ハナシ」のいきつく先があらかじめ決まっているということである。一種の予定調和であり、勧善懲悪を描く時代劇や、ハッピー・エンドが約束された恋愛ドラマのようなものだ。石原千秋風にいうならば「それからどうした」を追っていく速度重視型物語といえるだろう*1。この速度重視型物語の場合、「〜が…をする」、「〜が…になる」というように、一文に要約できてしまうのだという。某携帯会社のコマーシャルにおける「森に行った赤ずきんちゃんは、狼のお腹から帰ってきました」というような感じ。この対極にあるのが要因重視型物語で、「なぜそうなったか」が重要になるのだという。
 今日の朝日新聞文芸時評で、エンターテイメント小説は前者で純文学は後者である、と斎藤美奈子が書いていた。「起承転結が完璧にキマっている」のと、「起承承転、承承転結、承承承承」というように、型にこだわらない、もしくは壊すことに眼目があったりするのとの違い。個人的嗜好でいえば、前者を苦手とし、後者の方がまだマシだと思える傾向にある。「オチ」のない者としてはそちらの方が馴染めるということか。だからブログの文章にもなかなか「オチ」をつけられないのか。妙に納得させられる。序破急

*1:ただし、石原の分類はあくまでも「読み方」の問題であり、ここに挙げるにふさわしいたとえではなかったのかもしれない