撮影本番

 朝から宇治へ行き、e-ラーニングの配信用動画を撮影をする。何ヶ所かの読み間違いもしたが、それなりに乗り切る。
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 他者の耳に届けられる声/〈その声〉と、自己の内部をとおして認識される声/〈この声〉との隔たりについて、思う。
 カセット・テープに録音された聞き慣れない〈その声〉を、ごく稀に、ほめてくださる方がある。だが、手放しには喜べない。なぜなら、〈その声〉は聞き慣れた〈この声〉とは似ても似つかない音と速度によって構成されているからだ。ほめられているのは〈その声〉のほうであり、〈この声〉ではない。〈その声〉と〈この声〉がイコールで結ばれることが自明でない限り、喜びようがないというわけだ。

現象学的内面性においては、自分を聞く〔聞かれる〕ことと自分を見る〔見られる〕こととは、根本的に異なった二種類の〈自己への関係〉なのである。 「沈黙を守る声」/ジャック・デリダ『声と現象』(ちくま学芸文庫

 よくいわれるように、自己の顔を自己の肉眼で確認することはできない。できたとしても、それは鏡のような道具を介さなければ不可能だし、そこに映し出されるのはあくまでも鏡像でしかない。声の場合、伝達経路に内外の差異はあるとしても、自己の耳で聴くことができる。この自己の耳に届く〈この声〉は、主体に同一化し、付属し、そして自由に使えるものと思い込んでいる。しかし、この「見せかけの卓越性」は主体-主観に属しているというよりも、むしろ話すことば(=パロール)の構造に含まれているのだとデリダはいう。云々(う、限界…)。
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 その昔、研究会の課題図書として取りあげたものの挫折した『声と現象』を(少しだけ)再読してみた。やはり難解。
 とにかく、月末に予定されている編集作業で出会うはずの〈その声〉も、きっと奇妙な声に違いない。