変体仮名

 昨夜の夜遊びで読めていなかった夕刊を、朝刊とともに目を通す。
 「窓 論説委員室から」のタイトルに「携帯に変体仮名も」とあったので、いつものように飛ばさずしっかりと読む。内容は「携帯電話でメール交換」する「若い世代」に「活字回帰」の可能性をみる、といったようなもの。そのなかで、中野三敏氏のコメントが紹介されていた。

「携帯電話に変体仮名のフォントを入れるのが当たり前になってほしい」と望んでいる。和紙で和とじで製本し、変体仮名や漢字の草書体で書かれた和本を読む力、「和本リテラシー」を高めるのがねらいだ。(略)活字になった江戸時代の文献はまだまだ少ない。「字が読めないだけで、和本の広大な海へこぎ出せないのは非常にもったいない」(略)変体仮名が身近になれば突破口の一つになるだろう。

 もちろん、読書は専門的な知識を身につけるためだけにおこなうものではない。娯楽としての読書行為だってある。もしかしたらそうした目的のほうが多いかも知れない。だが、いきなり江戸時代の文献を娯楽として読めるのかというと、(無理とはいわないまでも)それなりの知識量がなければ読む楽しみなど感じることはできないだろう。
 また、近年は江戸時代の文献を翻刻する際、変体仮名を現代語の仮名遣いに改めることを奨める研究者も多い。変体仮名の読解が「突破口」であるうちはいいが、「目的」にすり替わってしまうとなれば本末転倒である。字が読めるだけでは、それこそ「非常にもったいない」。
 異を唱えるつもりはないけれども、やや私情に偏ったきらいがあるように思われる。ただ、氏の発言そのものよりも、その引用のされかたに問題があるのかも知れないのだが…。