やや書評

 かつて大学生だったころ、一般教養科目は人文科学、社会科学、自然科学に分類され、興味に応じて履修していた。もちろん、専門科目の周辺の科目もあれば、全く分野違いの科目もあり、それなりに楽しんで聴講していたように思う。入学年次とほぼ同時期に大学設置基準が改正されたことをうけ、教養部の解体が進むことになる。そして、先の分類やそれぞれの科目必修制は廃止され、各大学の裁量に委ねらることになっていく(リベラル・アーツという呼称が目につきはじめたのもほぼ同時期か)。
 こうした流れの影響かどうかはよくわからないのだが、ここ2、3年で「教養科目を履修する意味がわからない」と学生にいわれることが多くなってきている。学ぶこと、知ることの「楽しさ」よりも、「(今後の人生に)役に立つかどうか」が評価の基準になっているようだ。この傾向は、特に実学系学部の学生に顕著である。実際に「なぜ必要か」と問われたときには、「大学教育とはそういうものだから」と答えるようにしている。もしも専門的な知識や技術だけを習得したいのであれば、大学進学以外にも道はある。
 ただし、教える側の自省も必要だ。「おもしろい」と思わせるような講義内容であれば、「なぜ」と問われることもないだろう。

 本著は慶應義塾大学教養研究センター選書から出版されている。この教養研究センターは、教養教育の理念や、その内容、手法などを議論すべく2002年7月に発足されたのだという。おそらく、本著もその成果のひとつなのであろう。
 ブラム・ストーカー著『ドラキュラ』は1897年にイギリスで出版された小説である。この『ドラキュラ』を、「口」、「メディア・セクシュアリティ・帝国・大飢饉などの歴史」、「真理と物語の問題」を鍵語にして読み解いてみせる本著は、非常におもしろい。
 「口」。ドラキュラ伯爵が吸血するときに使用する器官はもちろん「口」なのだが、それ以外にも、「口」によってもたらされる「速記」や「蓄音機」といった近代の聴覚・音声メディアの登場がテクスト解釈に重要な意味をもつという。フリードリヒ・キットラー著『グラモフォン・フィルム・タイプライター』などはこうした読みの姿勢を補強してくれそうだ。
 また、『ドラキュラ』における「口」は、発声による音声情報の真正さ、摂食としての吸血行為、セクシュアリティのメタファーとして機能しているという。このセクシュアリティの問題にジーグムント・フロイト精神分析を援用すること自体は凡庸なのかもしれないが、刺激的な解釈であることには違いない。
 本著のような解釈が即「役に立つ」かどうかはわからない。しかし、「おもしろい」と感じることで知的好奇心は刺激されるだろうし、そこから(たとえ異分野であったとしても)知的発想のヒントを得ることだってあるはずである。
 なにごとも「Get The Knowledge , Free Your Mind!」だ。たぶん。