やや書評
かつて大学生だったころ、一般教養科目は人文科学、社会科学、自然科学に分類され、興味に応じて履修していた。もちろん、専門科目の周辺の科目もあれば、全く分野違いの科目もあり、それなりに楽しんで聴講していたように思う。入学年次とほぼ同時期に大学設置基準が改正されたことをうけ、教養部の解体が進むことになる。そして、先の分類やそれぞれの科目必修制は廃止され、各大学の裁量に委ねらることになっていく(リベラル・アーツという呼称が目につきはじめたのもほぼ同時期か)。
こうした流れの影響かどうかはよくわからないのだが、ここ2、3年で「教養科目を履修する意味がわからない」と学生にいわれることが多くなってきている。学ぶこと、知ることの「楽しさ」よりも、「(今後の人生に)役に立つかどうか」が評価の基準になっているようだ。この傾向は、特に実学系学部の学生に顕著である。実際に「なぜ必要か」と問われたときには、「大学教育とはそういうものだから」と答えるようにしている。もしも専門的な知識や技術だけを習得したいのであれば、大学進学以外にも道はある。
ただし、教える側の自省も必要だ。「おもしろい」と思わせるような講義内容であれば、「なぜ」と問われることもないだろう。
『ドラキュラ』からブンガク―血、のみならず、口のすべて (慶應義塾大学教養研究センター選書)
- 作者: 武藤浩史
- 出版社/メーカー: 慶應義塾大学教養研究センター
- 発売日: 2006/04/01
- メディア: 単行本
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ブラム・ストーカー著『ドラキュラ』は1897年にイギリスで出版された小説である。この『ドラキュラ』を、「口」、「メディア・セクシュアリティ・帝国・大飢饉などの歴史」、「真理と物語の問題」を鍵語にして読み解いてみせる本著は、非常におもしろい。
「口」。ドラキュラ伯爵が吸血するときに使用する器官はもちろん「口」なのだが、それ以外にも、「口」によってもたらされる「速記」や「蓄音機」といった近代の聴覚・音声メディアの登場がテクスト解釈に重要な意味をもつという。フリードリヒ・キットラー著『グラモフォン・フィルム・タイプライター』などはこうした読みの姿勢を補強してくれそうだ。
また、『ドラキュラ』における「口」は、発声による音声情報の真正さ、摂食としての吸血行為、セクシュアリティのメタファーとして機能しているという。このセクシュアリティの問題にジーグムント・フロイトの精神分析を援用すること自体は凡庸なのかもしれないが、刺激的な解釈であることには違いない。
本著のような解釈が即「役に立つ」かどうかはわからない。しかし、「おもしろい」と感じることで知的好奇心は刺激されるだろうし、そこから(たとえ異分野であったとしても)知的発想のヒントを得ることだってあるはずである。
なにごとも「Get The Knowledge , Free Your Mind!」だ。たぶん。