技術革命

 国民読書年記念ロジェ・シャルチエ氏講演会「本と読書、その歴史と未来」を拝聴するため、国立国会図書館関西館に出かける(東京本館は早々に諦めた)。新祝園駅でバスに乗り込んだあたりから小雨が、「故」わたしの仕事館(バス停の名称がそのままだった)が見える頃には土砂降りの雨が降り出した。アメフラシ、最強伝説。
 ズブ濡れのまま、開始時刻になったので着席する。中継ということもあり、聴講者は20人弱といったところ。さすがに本館の方は盛況のようであった。
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 おおよそ3部の構成で、古代の様相・18世紀以降の動向、そしてデジタル技術との折り合いについて語られる。前半部に時間が割かれ、今日的問題についてはややあっさりとしていた。同時通訳の日本語がたどたどしく、聴き取りにくかったのが非常に残念。
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 そもそも著作権という考え方が生まれたのは18世紀のことで、対物的権利ではなく対人的権利を重視するという特長がある。ただし、この考え方はせいぜい200年ほどの歴史しか持たず、いわゆる印刷技術と複製に関わる権利の諸問題を解消するためのものでしかない。本をつくるための技術や状況が変化すれば、それに応じて著作権という考え方も変化する(せざるを得ない)可能性を孕んでいる。つまり、普遍的な権利ではないのだ。
 では、デジタルという革命的な技術を前にして、本をつくる状況はどう変化するのか。権利の所在をどうするのか。この問いに対する明確な答えは出ていない。氏はこの素晴らしい技術を多いに活用すべきとしながらも、ある企業が商業的目的を隠蔽しつつ「民主主義」の名のもとに知のデジタル化を進めつつある現況を憂慮する。
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 実は、この「憂慮する」事態に対してどのような手段を有効と考えるのかという部分を聴きたかったわけであるが、「△oo△le、ダメ〜」というその先は茶を濁したままであった。変化を許容しているのだから、デジタル化の過渡期にある現状では答えが出ないのは当然である。それでも聴きたかったというのは、欲が過ぎるのだろうか。
 個人的には、対人的権利が明確化する過程において、(もちろん、氏の著書ですでに指摘されていることではあるのだが)すべてに優越するような神格化された作者像がつくられたのだというくだりに首肯させられる。

読書の文化史―テクスト・書物・読解

読書の文化史―テクスト・書物・読解

 かつて、師の情報出版学概論で教科書として使用していたのが、『読書の文化史―テクスト・書物・読解』だった。懐かしい。