暗峠越え

 河内国大和国を結ぶ最短ルートとして整備された暗越奈良街道は、江戸時代にも多くの人びとが往還した。
 松尾芭蕉は、1694年(元禄7)9月9日、奈良から大坂へと向かう際に暗峠で次の句を吟じたという。

菊の香に くらがりのぼる 節句かな

 9月9日は重陽節句である。菊の節句ともいわれ、「暗がり」という名をもつこの峠を節句に供されている菊の香に導かれて登るのだというのがおよその句意である。51歳の芭蕉にとって、長寿を願う気持ちが込められているとみてもおかしくはないだろう。しかし皮肉なことに、この句を吟じた1ヶ月後、大坂は南御堂の向かいにあった花屋仁右衛門方の離れ座敷で没することになる。
 世は下って、芭蕉の百年遠忌を終えた1799年(寛政11)のこと。河内国豊浦村の俳人中村耒耜の手により、先述の句を刻んだ碑が暗峠に建てられた。
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 ところで、1801年(享和元)年刊の『河内名所図会』には「椋嶺峠、芭蕉翁碑」と題する鳥瞰図が収載されている。また、本文は建碑にまつわる経緯などを次のように記している。

近頃、寛政十一年己未十二月、豊浦村の耒耜、この句碑、椋ヶ嶺峠街道の側に建てゝ蕉翁の一百遠忌の追福とす。また諸方の俳師の句を聚めてこれを小冊とし浪花の二柳の序ありて『菊の香』と題号せり。

 『河内名所図会』の出版は建碑からわずか2年後であるから、当時の最新情報を取り入れていることになる。

匂ふ名の 石ともなりて 菊の露

 図中に付されたこの句は『河内名所図会』の編著者である秋里籬島の作で、建碑にあわせた内容に仕立てられていることがわかる。さらに、「椋嶺峠、芭蕉翁碑」の続きに載る「髪切山、時鳥を聴く」と題する風俗図は、髪切山慈光寺で時鳥の声を聞きつつ句会を開く文人たちのようすが描かれている。この図にもまた、籬島作の次の和歌が付されているのである。

ぬば玉の月さやかなる夜半なれば 啼くほとゝぎすかげもかくれず

 図の情景とほぼ一致する内容で、おそらくは籬島自身もこの地で文芸サークルに興じたやも知れない。図中の文人たちのなかに本人の姿があるのでは、とうがちたくもなる。
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 秋里籬島と中村耒耜の関係や籬島の俳風がどのようなものであったかなどと検討すべき点は多いものの、『河内名所図会』の編集方法に当時の人的交流の痕跡をみることはそう無駄ではないであろうと思う。