奇しくも

 かつて師が病床に臥された折、持っておられた連載を代わりにお引き受けした。残り2回分、すでにテーマは決まっていた。6年ほど前のことである。
 雅俗両面の文学に通じ、万事に鋭敏な方だったので、代役が務まるとはとうてい思えない。ただ、常より「耳学問」として聞いていたその「思考」を手がかりに、文章を綴った。
 HPに手を入れるついでに当時の文章を読み返していて気づいたことがある。「伏見稲荷と伴蒿蹊」と題する小考のなかで、伴蒿蹊と皆川淇園が1年違いの同年齢で没したことについて触れた。掲載当時、師は存命であった。が、いまにして思えば、彼らと同じくして逝かれたのである。こうした偶然があるものか。そして、代役の最終回は「伏見の桃と橘南谿」だった。
 こうした経緯から京都新聞の連載初回に桃山を選んだ、というのが実のところ。読み比べて、進歩があれば幸いなり。