歯がゆい

 いま読み終えた研究会報告書(『ポピュラーカルチャー研究』(京都精華大学表現研究機構)Vol.1 No.4)は「声」をテーマに掲げている。この「声」についてのレポートを文字によって読んでいることに、いいようのない違和感を覚える。この違和感とは、増田聡氏の報告を参考にするならば、ロラン・バルトのいう声の意味作用と意味形成性との相違に由来しているといえよう。意味作用は音声であれ文字であれ日本語という言語体系によって担保されうるが、文字には音声に備わっていた(はずの)抑揚や感情といったものが欠落してしまう。例えば、質疑応答の場面でその発言がどのような状況でなされたものか、文字化された報告書からは(ある程度は想定できるとしても)うかがい知ることはできない。
 では、この報告書を録音された音声として聴いたとすればどうか。先の抑揚や感情といった部分も補足されるという意味では、文字化されたテクストとは異なる。しかし、その音声が誰のものであり、どのような人物が発しているのかについては知ることはできない。やはり、文字と同様、すべてのコンテクストを汲み尽くすことはできないのである(視覚情報をも含めたVTRであったとしても、だ)。ここでヴァルター・ベンヤミンのいうアウラの欠落を云々するつもりはないが、「声」の現場性は再現不可能であるがゆえにさまざまな問題を孕んでいるのだろう。
 ふと思い出す。
 10年ほど前のことだが、大学時代のサークル仲間で話していたときのこと。演奏を伴うライブという空間には何かしら特別なものを感じるが、クラブ・ミュージックやDJといった再現可能性に担保されたような場面では盛り上がれない、と友人がいっていた。いつでもどこでも再現できるのならば、自宅やポータブル・プレイヤーなどで聴けばよいのであり、個人的な嗜好を共有するためだけのナルシシズムにはつき合いきれない、というのである。
 こうした考え方は、増田氏の報告を参考にすれば、吉見俊哉四象限図式でいう「口承」と「電子」の相違で説明することができそうだ。「身体性」をもつという側面では同じであり、「複製性/非複製性」という側面では異なる。友人がいうところのライブは「口承」であり、クラブ・ミュージックやDJは「電子」に属していることになる。この「口承」と「電子」とがともに「身体性」を帯びているという点が、友人には理解できなかった部分なのだろうと思う。おそらく、友人にとっては初音ミク(実は、この報告書を読んではじめて、ショオンでなくハツネであることを知った)などとうてい理解しがたい存在であろう。
 無知ゆえにごく卑近なことでしか比較できないことがとても歯がゆい。が、示唆に富む、たいへん興味深い研究会報告書であった。お譲りくださった増田聡氏に感謝いたします。
http://d.hatena.ne.jp/smasuda/20080728