思考停止

 江戸時代の街道について考えるとき、そこを利用し、通過する「速度」が問題になってくるのではないか。たとえば、京〜江戸間の移動は、東海道ルートであればおよそ10〜13日間であったのに対し、中山道ルートだとおよそ14〜16日間を要したとされている。しかし、見積もりどおりに歩を進めることができた後者に対し、前者は川留めや関所など、旅の速度を妨げる要因がいくつもあった。そのため、綿密な計画を必要とする旅程の場合には中山道ルートが選択されていた(和宮降嫁の際に利用されたのは有名である)。
 東海道の川留めに関しては、幕府があえて架橋をしなかったのだとわれている。また、その理由として、参勤交代時の大名への負担を増加させるためであったり、江戸へ容易に攻め込ませない対策であったなど、いろいろと指摘されている。いずれにせよ、その速度をゆるめることに意味があったはずである。
 こうした戦略は、前近代には有効であったかもしれない。しかし、近代以降のテクノロジーとの関わりのなかで、速度を利用していたはずの政治は、速度に取り残されることになっていく。ポール・ヴィリリオは『速度と政治』のなかでそう指摘している(と思う)。


 まあ、ここまではよかろう。このあと、どのように考え咀嚼していくのか。極めて中途半端。道は険しい。

速度と政治 (平凡社ライブラリー)

速度と政治 (平凡社ライブラリー)