書評とか

 かつてエルヴィン・パノフスキーの名を教えてくれたのは英文学科にいた友で、博士前期課程2回生のころのことだ。
 学部卒業時、すでに「絵を読む」ことを研究テーマとして掲げてはいたものの、理論的な知識は皆無で、指導教授からのアドヴァイスだけを頼りに手探りで前に進む毎日を過ごしていた。当然、イコノグラフィー(図像学)とイコノロジー(図像解釈学)の相違について解説されてもなかなか咀嚼できずにいた。
 あるとき、前述の友に「パノフスキーを読むといい」とアドヴァイスをうける。当時は文庫のように手軽に読めるものが出版されておらず、分厚い専門書を借りて読んだ。用語のレベルで躓き、とても読みづらかったと記憶している。その後、無理に無理を重ねてエルンスト・ゴンブリッジやケネス・クラークなどを読むうちに、おおよその枠が見えてきたような気がした(あくまでも「気がした」だけなのだが…)。

『ヴィーナスの誕生』視覚文化への招待 (理想の教室)

『ヴィーナスの誕生』視覚文化への招待 (理想の教室)

 もしも当時、このような概説書があったならばもう少し理解が進んでいたのではないだろうか。専門的な用語についての補足が必要な部分はあるものの、そう思わせるほどに本著はよくまとめられている。

こうした(見たまま、観察したままの)記述の段階をと、作品解釈の大前提としてとらえ、それを第一段階の「自然的内容」と呼びました。パノフスキーによれば絵の解釈は、このような初歩的な段階を越えて、さらに次の二つの段階へと深められ、高められなければなりません。つまり、まずは絵に描かれている物語や寓意の内容にかかわる第二段階、この美術史家が「慣習的内容」と呼ぶものです。いいかえるなら、神話や宗教的な主題の物語や登場人物たちに対応する段階ということです。そして最終的には、「本質的内容」と呼ばれるものに到達することになります。この段階は、絵のなかに込められた精神的、観念的な意味を探り当てようとするもので、その源泉は、主に同時代の哲学的・文学的なテクストに求められることになります。

 読者論的、テクスト論的発想に親しんでいたりすれば、なるほど、と思わせられるところが多い。ただし、こうも付け加えている。

つまり、目に見えるものは目に見えないものより、物質は精神より、イメージは概念より、表層は深層よりずっと劣るもので、前者(可視的なもの=物質=イメージ=表層)は、後者(不可視なもの=精神=概念=深層)へと高められ置き換えられてこそ、真に意義あるものとなるという大前提が、暗黙のうちで「イコノロジー」という方法を支えているのです。

 イコノロジーの依拠するネオプラトニズムが、超越的なもの、超感覚的なものに優位性を見いだすかぎり、作品に込められたメッセージを読み落とすことがあるのではないか、と注意をうながす。そのうえで、著者は「民衆的な祝祭文化とのつながりを前景化」させる広がりをもつアビ・ヴァールブルクにイコノロジーの可能性を託す。絵画を同時代的コンテクストのなかに戻してとらえなおそうということなのだろう。

 こうしたイコノロジーへの批判的姿勢は、得てして、読者論的、テクスト論的なものを攻撃する作家論的身振りに似ているようにみえなくもない。やや的はずれなのかもしれないが、このような類似性をみることができるようになっただけでも、パノフスキーに初めて出会ったころから少しは進歩したのだろう(か?)。