書評でも

 専門が日本近世文学、主たる研究対象が「名所図会」類となると、こういったタイトルの本を読まないわけにはいかない。だが、本著のように江戸時代の文化を研究対象とする場合、往々にして江戸地域のそればかりを特化することが多いように思われる。まるで江戸地域こそがこの時代の「標準(スタンダード)だ」といっているようで鼻につく。そんな意地の悪いみかたで読むのだから、辛口の批評になってしまうことは否めない。

 「資料」と「史料」の違い。一文字の違いではあるが、気にかかる。ほとんどの分野で「資料」の文字を使用するのに対して、歴史学の分野では「史料」として扱われる。また、大きな括りとしての「資料」のなかの一部が「史料」と呼ばれるようである。同じ素材であったとしても、だ。
 現在web上で公開されている国立国会図書館の電子展示会「史料にみる日本の近代―開国から講和まで100年の軌跡」の「歴史史料とは何か」には以下のようにある。

歴史とは、過去の事象を現代人に分りやすく筋道を立てて叙述したものである。歴史がしばしば「物語」として受け止められるのは「分りやすい筋道」があるからである。実際、かつて歴史は文芸・宗教と重なっていたし、今日でも文芸との境界は必ずしも判然とはしていない。
さて、過去に存在した事象を把握し筋道を立てるのに役立つ材料を「史料」と呼ぶ。紙に書かれた文献史料がすぐに頭に浮かぶが、口頭伝承、金石文、絵画、録音、映像(写真、動画)など様々な種類がある。遺物・遺跡なども広い意味の史料である。
史料は一つ一つ、歴史研究を行う上での有効性・信頼度(信憑性)が異なり、これを見極める作業を「史料批判」と呼ぶ。文献史料を例にとると、その目安となるものは、その史料を「いつ」「どこで」「だれが」書いたか、の三要素であり「そのとき」「その場で」「その人が」の三要素を充たしたものを「一次史料」と呼び、そうでないものを「二次史料」と呼んでいる。

 ここにある「史料」の箇所にそのまま「資料」を置換しても、さほど問題はないように思われる。しかし、「役立つ材料」であるとか「有効性・信頼度(信憑性)」が厳密に問われるといった点は違和感を感じてしまう。確かに、文学研究においてもその資料が信用するにたるものかどうかを云々することはある。あるにはあるが、むしろ「なぜそのように書かれたのか」とか、「その言説を下支えするものはなにか」といった部分に焦点が当てられるのではないだろうか。

 本著の場合も古版地誌類(近世前期に出版された地誌)と「名所図会」類の境界、さらにいえば、『都名所図会』(など「名所図会」類の歴史からみればごく初期に出版されたもの)と『江戸名所図会』の境界を、その図像の正確さに置いている。それぞれ、前者より後者の方がより「写実的」であり、「史料」的価値があるというのだ。それを証明するために、あらゆる数値的分析を例示してみせる。前述のように「有効性・信頼度(信憑性)」を問題にするならばこの方法は有効なのかもしれない。しかし、そうした客観的(だと信じてしまいやすいよう)な数字によって「作者の意図」を探るのは、あまりにも単純すぎるであろう。このような分析は江戸地域こそがこの時代の「標準だ」といっているように感じられる語り口と通底しているようにもみえてくる。
 「名所図会」類に限らず、数値化ではあらわれてこない微細な部分や、「作者の意図」に反してしまうような小さな躓きに目を向けることにより「読み」の可能性は広がるはずである。少なくとも、文学研究の切り口からみれば、そこに「資料」を読み解くダイナミズムがあるのではないだろうか。