くずし字
「読める」ことが特別な能力であることに変わりはないのだろうが、誰もがそれを「読める」状況になることは画期的である。ただし、古文が読めなければ意味がないのだが……。
江戸期以前の“くずし字”、精度80%以上でOCR処理、凸版印刷が技術開発
凸版印刷株式会社は3日、江戸期以前の“くずし字”を高精度でテキストデータ化する新方式のOCR技術を開発したと発表した。同社では、この技術を使った古典籍のテキストデータ化サービスを今年夏より試験的に開始する予定。
「源氏物語」(絵入本、国文学研究資料館蔵)のOCR処理の例凸版印刷が2013年から提供している「高精度全文テキスト化サービス」で確立したシステム基盤をベースに、公立学校法人公立はこだて未来大学の寺沢憲吾准教授が開発した「文書画像検索システム」を組み合わせた。テキストデータ化済みの文献をくずし字データベースとして使用することで、テキストデータ化されていない文献を80%以上の精度でOCR処理できるようにした。
「近年、大規模災害による資料アーカイブの必要性の見直しや、専門家の減少と資料の経年劣化による文化継承の危機的状況から、歴史的資料のデジタル化やテキストデータ化が求められているが、総数100万点以上ともいわれる江戸期以前のくずし字で記されている古典籍は、専門家による判読が必要とされ、テキストデータ化が遅れていた」という。今回開発した新方式のOCR技術により、専門家による判読に頼っていたテキストデータ化と比べ、大幅なコスト削減と大量処理が可能になるとしている。
(INTERNET Watch)
文系不要論が叫ばれるなかで、凸版印刷のニュースリリースにおける「私たちは明治以前の日本を知るため、ひたすら文字を読みます。しかし皮肉なことに、その文字は、近代150年の達成と引き換えに、まったく読めなくなってしまいました。活字にだけ頼る人は、日本のことを、ほんの一部しか知ることができません。気づきにくいことですが、欧米諸国とちがって、日本人は自らの歴史風土を自在に行き来する能力を失ったのです。それ自体、世界史のなかでも特記すべきこと」というロバート・キャンベル氏のコメントは、なかなかに突き刺さる。中野三敏氏の和本リテラシーもしかり。
子守ノ神
産前休暇に入ってすぐ、所属学科が発行している会報の記事を書いたのが、休暇前に課されていた最後の「宿題」だった。先週末、仕上がった会報が拙宅に届いたので、ここに再掲しておく。
吉野よく見よ
大阪府の北部、北摂地域に生まれ育った者にとって、奈良県の、とくに中央から南部にかけての地理は不案内なことが多い。多分にもれず、京都から近鉄電車が直通している橿原神宮前まで、よくて飛鳥のあたりまでが限界で、かの桜の名所もどのあたりに位置しているか知らないままだった。さすがに大学時代にはおおよその地理を把握していたが、実際に訪れたのは大学院生のときだった。ただ折悪しく、中千本か奥千本かが火事にみまわれたとのことで、吉野駅の手前、吉野神宮駅で引き返し、それきりになっていた。
昨年の九月、ようやく吉野山に登り(徒歩でなく車で、というのが情けなくもあるが)、吉野水分神社に参詣することができた。ここは、天理大学に着任した二年目に三年次生の演習で本居宣長『菅笠日記』を輪読してからずっと、行きたいと思っていた場所だった。
『菅笠日記』は宣長が四十三歳の年、明和九(一七七二)年三月五日から十四日にかけて、大和国を旅した際の日記である。冒頭には、万葉集巻一「よき人のよしとよく見てよしといひし吉野よく見よよき人よく見つ」を引きつつ、「一目千本」と評される吉野の桜をみようと思い立ったのが旅のきっかけだと記されている。しかしなぜこの年/歳に、旅に出ようと思い立ったのだろうか。
じつはこの旅にはもうひとつの目的、「子守の神」すなわち「吉野水分神社」に再詣することが宣長の念頭にあった。宣長が吉野水分神社をはじめて訪れたのは十三歳のときで、母とともにお礼参りにやってきたのだと、『菅笠日記』には記されている。宣長の両親はながらく子に恵まれず、「子守の神」に願をかけたところ、宣長が生まれた。父は、息子が十三歳になったらかならず親子で参詣すると誓うものの、宣長が十一歳のときに他界してしまう。つまり母との参詣は、父の遺志をうけたものだった。そして、三十年後の四十三歳つまり後厄の年、観桜に託けて再詣を果たしたのである。
『菅笠日記』には「中此には。御子守の神と申し。今はたゞに子守と申て。うみのこの栄えをいのる神と成給へり」とも記されており、江戸時代にはすでに、吉野水分神社が「子守の神」としてひろく認知されていたことがわかる。現在、鳥居をくぐった山門右手に豊臣秀頼が寄進した湯釜が置かれている。そして社殿もまた、秀頼によって建立されたものである。これは豊臣秀吉が「子守の神」に祈願したところ秀頼を授かったことにちなむと、山門脇の解説に記されている。宣長と同様、父の願いに子たちが応えた例である。
自身が吉野水分神社に参詣する前からこうした経緯は知っていたものの、「子守の神」の験が、再詣した宣長と同じ歳の我が身に現れるとは思いもよらぬことであった。私事であるが、今年の桜が盛りをすぎ、吉野山にあざやかな若葉が茂るころ、家族がひとり増えた。
懐カシノ
木曜日は昼過ぎから大学で会議×1、帰路、京都駅でかつての同僚K先生&卒業生×2と落ち合い、会食。卒業生のうち、ひとりは本年度の研究生として指導していた学生で、大学院への進学が決まり、もうひとりはこの春に大学院を修了する学生。今後の学生生活のことや修士論文で苦労したことなど話しながら、楽しく過ごした3時間。
土曜日、ふと携帯に目をやると、卒業生からのメールが届いていた。奇しくも、木曜日に会った大学院を修了する学生の同期生である。どうやら午後から関西に来るらしく、大学で会いたいとのことだった。あいにく自身は土日で大学へは行かない予定だが、日曜日の午後なら京都駅で会えそうだと伝え、約束を取りつける。
本日、1年半ぶりに再会した卒業生は、非常に頼もしく、社会人らしい顔つきになっていた。巣立っていく学生はこれほどまでに変化するものかと、目を細めた四十路がひとり。いまでも卒業論文を読み返しては、(中身はともかく)これが書けたのだから何だってやれるぞって気持ちになるんですなどと言われると、冥利に尽きるというもの。